「人に伝えるときに使う言葉は、ものすごく情報を圧縮している。それは、ゆえに情報の劣化を意味する。」
という話を聞いて、ハッとして朝っぱらから頭をフル回転させ気づきを得る機会をいただいた。
言葉や文字を介したコミュニケーションは、情報のカタマリである人間の、何億分いや何兆分の一の情報のやり取りでしかない。
時として、悲しきかな望んでいないミスコミュニケーションを生むことだってある。
喩えるなら、圧縮しすぎて原型をとどめない写真データや
ファイルそのもののサイズは小さくなっても、ディテールが潰れてしまい捉え方によってはもはや見るに堪えない代物に成り代わってしまう、アレに似ている気がする。
便利さと引き換えに失ったのは心か
世の中には、実にいろんな人がいて、
対面でお会いした際は、巧みなコミュニケーションで人を惹きつける術を持っている人にもかかわらず、いざメッセージのやり取りをしてみると、まるで同一人物とは思えないお世辞にも相手に配慮しているとは言い難いやり取りが始まったりする。
しかし一方で、強面の顔に反して、会っている時以上に愛ある言葉とものすごく丁寧で物腰の低い繊細なお言葉をいただくこともあるから、その人の人となりを会っているその時だけで判断するのは非常にむずかしいな…と思う。
日々、お客様とテキストだけのコミュニケーションをしていてもそうだ。
特に、テクノロジーの発展した現代において、世界中のどこにいても顔の見えない相手と言葉を交わすこと自体は簡単な時代だが、ITの恩恵に預かっている一方で、ともすれば大切な何かを失いかねないと考える私はデリケートすぎるだろうか。
例えば、ただの「・・はい。」という言葉の背景にも膨大な情報があったりして、大抵は肯定する意味を込めて「Yes」と言っているのだろうけれども、実はその逆の意味で含みがあったり、無限の解釈の余地をはらんでおり、内心本当のところはどう考えているのか、は本人にしか分からないのが事実だ。
誰もがつい使ってしまう「よろしくお願いします」という言葉に至っては一見便利だが、どうすることがお互いにとっての「よろしく」に当たるのか、はたまた肯定なのか否定なのか根底から崩しかねない危うさをはらむリスキーな言葉でもあると日々感じる。
海外に行けば楽になるという逃げ
そう言った日本人特有のコミュニケーションに辟易する自分。
海外に行けば、もっとわかりやすくて明快なコミュニケーションがある、と自国の言葉に消化不良のような気持ちを抱いたりしたこともかつてを振り返ればあった。
はじめて海外留学をした時、日本人特有のお茶を濁すような、肯定も否定も明確にせず、自分のスタンスもハッキリさせない、海外レベルにおいて、著しくスタンダートに欠ける受け答えに苛立ちを露にされたことも少なくなかった。
郷に入っては郷に従え、と次第に自らもその潔い「反応」「対応」に慣れていき、誰にとっても一目瞭然な分かりやすい受け答えに楽さを覚え、結果的に対日本人とのコミュニケーションおいては煩わさを覚えたりもした。
ひと匙のらしさを会話の中に
今となっては日本人に生まれた以上、何が良い悪いの二元論に逃げず、仕事に支障をきたさないあるいは大きなミスコミュニケーションを生まない範囲で、含みのある言葉や多少の言葉の不便さも愛していこうと思えるようになった。そういった制約の中で、自分らしいコミュニケーションをしていく方が、こと日本人同士の対人関係においていい関係を育んでいけるような気がすると最近になって思えるようになった私は大人の階段を着実に登っているだろうか。
結局、どれだけ便利な時代になって、世界中どこにいてもメッセージのやり取りが出来ても、直に会って心を通い合わせる「あの瞬間」の喜びに勝るものはないのだなと思わせられる。
絵文字のひとつやほっこりするスタンプのひとつでもあると、目には見えない人の心の向こう側に触れられた気分になるが、かわいい絵文字や一言で気持ちが伝わるスタンプに逃げず、
面と向かって「大好きだよ」「いつもありがとう」と伝える熱量と時間を忙しい日々の中でも大事にしていきたい。