週末の東京出張から京都に帰ってきて一夜明けた朝、
ランニングをしながら「なぜ旅をするのか?」という理由について、少しばかり解像度を上げて考えてみた。
旅から帰ってくると、全くあたらしい毎日が始まる。
これまで日常のルーティーンと化していたものをやめてみようか?変えてみようか?と思えるきっかけを多々もたらしてくれる。
このランニングだってそうだ。
以前は、一年半以上起き抜けに朝ヨガ習慣が定着していたが、
最近になって、異なる習慣を取り入れたいと思うようになり、今朝は走ってみたという訳だ。
人との出会いにしてもそう。
出会いを通してあたらしい考え方をインストールできる。
自分が今まで大事そうに握りしめていたものがとある人の一言をきっかけに陳腐に思えたり、
もっと他に大切なものは日常の中にあったな、とこれまで目を向けなかった物事へもスポットライトを当てることができる。
私の凝り固まった頭を心を解きほぐしてくれるのも、いつも「旅」の存在があるからだった。
旅をきっかけに人生の可能性が拡がっていく、まさにそんな感覚とともにあると思う。
旅に出ると不思議と古びた習慣やこれはもういいかなと内心思っていたことを自然淘汰させることが出来るから、人生をフレッシュにさせるこんなに便利な方法はないなと思う。
日帰りのプチ旅行でもいい、
たった一人で過ごすホテルのワーケーションでもいい。
そのあたらしいに触れるきっかけ探しに出られるなら何だっていい。
飽き性なタイプだが、これだ!とビビッきたものやことに対する執着は異常に高い私は、次なるマイ定番を虎視眈々と探しに出かけているのかもしれない。
行き詰まったら旅に出る。
だから、行き詰まったら旅に出ていた。
以前は—
「ちょっと来週から、〇〇行ってくるわ。」という具合に。
しかし、もう1年半以上も海外に行っていない。
時代は進んでいるはずなのに、お金と時間さえあれば簡単に叶えることが可能だったかつての状況が当たり前ではなくなってしまった。
そう思うと、日本国内、たとえ近場であっても一回の旅の重みがズシっと増してくる気がするのは私だけではないはずだ。
偏見が消える
8年間、毎日変わらぬ景色をフロントガラス越しに眺めながら、
「何とか幻想でもいいから、目の前の景色をトロント(当時から決めていた留学先)の街並みに塗り替えられないか」とくり返し思いながら車通勤していた会社員時代。
同じような属性の人たちばかりが集うコミュニティーにばかり属していると、自らの偏見を行動しない理由にすり替えている人たちが多くいることを知った。
体験に基づく感想は、事実。
未知なる想像で語るのは、憶測。
行動しない人は憶測でしか物事を測れず、独り合点して結局何も成し遂げていないじゃないか。
そんな面白味のないダサい人生、自分はぜったいに嫌だなぁ、とかつて強烈に思ったのを今でも鮮明に覚えている。
日本でも十分幸せに暮らせるのに満たされない気持ちを抱いて海外に飛び出した出どころはきっとここにあるのだと思う。
安定を求めて踏み出せない人生に終止符を打ちたい。
心からの欲求に忠実に、直感を大切にして行動してきたし、これからもそれでいいと思っている。
直感に勝る、人生の羅針盤は存在しないから。
だから、その直感にモヤがかからないように、日々細心の注意を払っているつもりだ。
SNSの刹那的な情報消費をしないように心がけているのも、
添加物の多い食事を摂らないのも、
一度にたくさんの人と会いすぎないのも、
敏感な自分の感性を傷つけないための防衛線を自ら張っているのだと思う。
緩急を生きている実感にする
たった一度きりの人生を少しでも面白おかしく生きるために、
人生の選択肢を増やすために、
こうして考えてみると、論理的にも感情的にも旅に出る理由は山ほどあった。
積極的に旅に出て、気づいたら見知らぬ人と肩を並べてお酒を飲んだり、コーヒーブレイクを楽しみながら行きずりの会話を楽しんでいる。
こんな経験は履歴書には書けないかもしれないけど、ガムシャラな毎日を生きていると得られるものも多く、人生の一瞬一秒が愛おしく思えてきたりする。
世界中に友達が出来て思うことは、案外人間の持つ悩みなど万国共通なんだなということ。
寄り添う気持ちさえあれば、高度な語学力など不要でいつの時代もどこの国へ行っても結局は人間味あふれる人がモテていたりする。
想像の世界の鳥だった人間が想像で終わらせず、体験したことはきちんと記憶のミルフィーユとして蓄積されているのだ。
その時は、明確に答えが分からなかったり、ぼんやりして輪郭がボケていることも頭の片隅に置いておけば、タイムラグのあるギフトとしてある時ストンと腑に落ちる日がやってくる。
私の人生において旅がもたらす影響力は、計り知れない。
だからきっとこれからもずっとお世話になるつもりだ。