50記事ほど書き溜めたブログが自身の怠慢(…ということにしておきましょう)で、ある日突然消えてしまった。
かつて自分がお腹を痛めて生み出した記事が世の中の役に立たなかった手痛い代償なのか—
「費やした時間を返してほしい…」とは不思議とならず、
いや、むしろ方向性の定まりきらないブログを一から立ち上げ直すのに絶好のチャンス!…と些か前向きすぎるが、気づけば消えたブログの存在は一旦水に流して前を向くことにした。
世の中に起こる全てのことに意味のないことなどないのだから。
「ハングリー精神様々、逆境こそやってやろうじゃないか」と燃えてくる性格に年々なってきたのかもしれない。
あぁ、自伝の章立てがまたひとつ出来てしまった。
情報発信のゴールはどこにあるのか
「自分の情報発信のゴールはどこにあるのか」
ある日、わたしの左脳がこのような問いを投げかけてきた。
むむむ、この度の問いはなかなか手強いじゃないの。
突如として投げかけられた命題に適切な答えが見つからぬまま、
それらがぐわんぐわんと頭をもたげ、ある日を境にブログをはじめとする各種SNSの投稿がパタッと出来なくなってしまった。
人は、今走っている道のりの先にゴールが見えなくなると途端に歩みを止めてしまう。
「いいやん。別に理由なんかなくても」
どこかからこのような声が聞こえてこなくもなかったが、もうこのような投げやりな理由で自身を納得することが出来なくなってしまっていた。
ペルソナは自分自身
考えた末に行き着いた答えは、自分のために書く、ただそれだけだった。
誰かをモチベートするため、
世の中に自分の考えを知らしめたい など
ありがちな公明正大な理由は自身にとってはおこがましいということだった…。
生きていてふと湧き出たWHYを深めるために、
内省的な自分をよりメタ認知する機会を得るために、
ペルソナを自分自身とした瞬間に、ブログを書くそれらしい理由はいくつも湧いて出てきた。
そこに結果として、共感してもらえたり…
あっ、なるほど。
そんな考え方もあるんだなと思ってもらえたり、するのは狙った訳じゃなくて結果論ではないかと思うと、随分と気が楽になった。
具体と抽象を行き来するブログ
今、確実にここにいる自分自身に向かってブログを書くということ。
気づきを深めるノート代わりに、問いを投げかけ続けるツールとして、またその一助となってくれればいいと低いハードルからの再開でも、そこに誰かが共感してくれるかどうかはおまけ程度で構わないと割り切れるのなら、書けることは山ほどあるのかもしれない。
この先の未来で過去の自分を客観視できるのなら、自分の脳みそのハードを外側に置いてみようじゃないか。