自宅のクローゼットには、選ばれし服しか置かないようにしている。
通称、一軍。
クローゼットのみならず、日常を彩るアイテム、アクセサリー、器をはじめキッチン用具に至るまで、私の生活はあらゆるこだわりで埋め尽くされている。
なんとなくでモノを手にするということはなく、そこには個々に必ず理由が存在する。
購買理由が安さなど、値段が第一であることもまずない。
「あなたは選ばれし逸品として、私の元にやってきた」
そう自信を持って語れる理由があるものばかりだ。
洋服は、流行りが理由で買うことではなく、あくまでも基準は自分に似合うかどうか、
器を買うときは、この器に映える料理が3品以上浮かばなければ買わないというルールを設けている。
「より少なく、より良く」
持ち物の数は少なかろうが、一つ一つにスポットライトが当たるように、一つ一つに目をかけてあげられるように。
今日もかわいいね、と心から思いながら使うたび、目に触れるたび愛おしさで包んでいる。
迷うくらいなら、いらないってこと
「迷うくらいなら、いらないってことだよ」という一言は、
私の母の躾のひとつである。
これまで、そう強く言い聞かせてくれたおかげで、幼き頃はその場の出来心に翻弄されて不要な買い物をしてきた私も大人になった今ではピンときた時しかお財布の紐を開かないようにまでに言い付けを守るようになった。
「母の日に、花はいらない」
「地方へ出かけた際も、お土産はいらない」
いずれも母の一言で一見ドライに映るが、不要なものを明確にするからこそ、愛すべきものへの愛を全うすることができる母ならではの気遣いだと伺える。
この「迷うくらいなら、いらないってこと」という基準は、大人になった今もなおオートマチックに物事の要るいらないを判断する基準として私の心に深く根付いている。
あらためて母の娘でよかったと思う瞬間である。
選ぶからこそ、選ばれるという本質
いいかげんに人を愛せない。
人付き合いにおいても、私は不器用さが否めない。
幸か不幸か適当な付き合いが苦手だからこそ、本当に気の合う仲間としか付き合うことが出来ない。
言ってみれば、気の乗らない約束のために出かけるのは、相手にも自分にも失礼だから。
その根本にあるのは、人も物も同じで、簡単にいい加減な気持ちで手に入ったものは、きっと大事にしないという逆説的な自信がある。
いつも真剣に目の前の事柄に向き合うからこそ、自分が確固たる理由を持って選りすぐるからこそ、私自身も相手に選ばれるという自負がある。
生活も考え方もエッセンシャルに。
より少なく、より良く。
生活の全てが本質を磨く過程であるように、たくさんのお金も物も持っては死ねないからこそ生きている時間を少しでも愛おしむために日々を投資していきたい。