「目の前の人を構成している要素の何割かは、自分である。」という話を聞いて、たしかに言葉のかけ手としても、かけられる側としても一理あるなと思った。
「君は、大成する素性がある」
かつて秘書をしていた役員に出会ったばかりのころ、一緒に食事をしている時に言われたことがある。
自分が大成するかどうかは別として、そう言わしめたからには自分の怠慢で相手の期待を裏切りたくないという気持ちが芽生える。
まだ何者でもない自分に賭けてくれた人を、努力でどうにかなることにおいての結果で否定するようなことだけはしたくない。
少々乱暴さは否めないながらも、「まだ何者でもない挑戦者」を何者かにする一つの方法として、「大いに期待を寄せて『急成長をして結果を出さないと裏切り者になってしまう環境』を与える」、そのためにエールを送る、という話を聞いて、まさにと肚落ちした。
期待を寄せることにはリスクがある。
時に裏切られることがあるから。
それでも、「期待に追いつこうとする力」の強さを私は知っている。
あまり人前では言わないのだが、実はすごく苦手としていることの一つに、たまたまその場にいたからなどという理由で特定の誰かを煽て囃し立てることに同意や強調を求められること、がある。
人を褒めるときは使う言葉は自分から嘘偽りなくかけたいと思う私は、こちら側が何らかの意図を持って頑張って「ヨイショ!」することにとてつもなく嫌悪感を抱いてしまう。
それは、受け手にはストレートに伝わるだろうと思うから最悪だ。
前述した通り、相手の言葉は時として相手の脳に深く擦り込む魔力のようなものを持っている。
だから、私は自分の言葉に責任を持ちたい。
お世辞やおべんちゃらが嫌いな所以もここからきているのかもしれない。
他人を変えることは、自分の影響力の外側にあるとは知りつつも、不意に言葉の影響力を思い知る瞬間が絶妙なタイミングでやってきた。