20代も後半に差し掛かった頃、これまでの人生にも増して周囲から「結婚」というキーワードを投げかけられることが増えた。

よくある小説の主人公が溜息混じりに抱くような気持ちと似たような感情を自分もリアルで抱く年頃になってしまったということか、と実感する。

私自身の『結婚』という文字に対する願望や期待値は薄く、居心地のいいパートナーシップの先に自然とその道が繋がっていればいいと思う程度でそれ以上でも以下でもないと思っている点だけが唯一違うところと言える。

つまり法律婚に対する興味関心が極めて薄いということになる。

もちろん、子どもが生まれたらこんな奔放なことは通用しないのは分かっていて、きちんと責任を取る選択肢として「法律婚」を選べばいいと思っている。

俗に言う『事実婚』がそれに当たると言われてみればそうなのだが、万人に受け入れられる価値観ではないからこそ、こんな風に思いの丈を述べると時にちょっと拍子抜けしたような反応を得ることも多く、自分は世間と少し違った考え方を持っているのだなと思うようになった。

こと女性は、結婚という文字に付随して子どもを産むかどうかの選択も同時に迫られることが多いから、尚更プレッシャーがかかってしまうのではないだろうか。

それは確かにうなずける。

だが、『結婚』という二文字にがんじがらめになるあまり、自らを苦しめ自分とは違う誰かの人生を生きなくてはならなくなってしまうのは誠に不幸だ。

血眼になって相手を探すその目はきっと恐ろしい。

私が男性なら、そんな瀕死寸前のハンターのような目で俺を見るな。とツッコミを入れてしまいそうになるだろう。

お互いの自立した人生をシェアしている関係

つい先日、とある国際結婚をしている女性のお話を聴かせていただく機会を預かり、そこで知り得た彼女の独立した考え方に共感の嵐だったのでぜひともここでシェアしておきたい。

結婚とは、

お互いの自立した人生をシェアしている関係

ただそれが結婚、という形であっただけのこと。

途端に肚落ちして、あぁ、そうそう。

私の下手な言語化ではここまでの表現に行き着かなかったけど、つまりそうありたいんだよ。

と心の中で何度も手を叩いて共感した。

一生同じ感情じゃないからこそ、アップデートを繰り返す。

ちなみに、彼女は法律婚をしていながらパートナーとの結婚には5年ごとに結婚更新制度なるものを取り入れているというのだ。

前向きに結婚生活を続けるため、5年後も私を選んでもらうため、年を重ねることを楽しむためにも夫婦生活をうまくアップデートしていく適切な方法として節目でお互いの未来を見つめ直すという機会を持っているのだと話す彼女の目が眩しくてかっこよかったこと。

加えてマンネリ化した関係になるのを防ぐ効果も発揮するとは一石二鳥ではないか。

まるで自分の所有物かのように思って当たり前でないことが当たり前に成り代わってしまうのは、お互いにとってアンハッピーだ。

『結婚』というかたちに捉われず、お互いに適度な緊張感を維持しながら、自由かつ良好な関係を築くこと。

それこそが29歳の等身大のパートナーシップの理想像だということを敢えてここに記しておきたい。

何年か後にこのブログを見つけて読み返す機会があるなら、考え方が変わっている自分と今と同じ考えでいる自分。

その両方があっていいと思うから。

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この記事を書いた人

ヒカリノアトリエの中の人

三度の飯より、旅が好き。
旅と写真と文章をこよなく愛しています。