5月は前半に熊本・宮崎、後半に福岡・北九州を旅する九州三昧の1ヶ月となった。
インターネットやSNSで簡単に
その地その場所に行ったかのような疑似体験が出来るようになって随分と経つが、
現地に足を運んでみて思うことは、やっぱり全てが全然違うということ。
疑似体験は疑似体験の域を出ず、
現地で心に触れた感動体験とは比べるのもおこがましいほどに違うということ。
まさにそんなことをまざまざと感じる旅となった。
情報は人にこそついてくる、
そして思考は移動距離に比例する、と言うらしいが、
行動した結果、自分の心が魂レベルで喜んでいる感覚を得たことが何よりの収穫だった。
インプットが全てを決める
この2年間、出張を除くとコロナを言い訳にあまり外の世界に出ていこうとしなかった。
うちに籠もっていると普段以上に内省することが得意になってしまって
見つめすぎることで苦しくなることも多々あった。
いつでも好きなときに海外へ行きたい、
そんな自由をこよなく愛している人間は
コロナというもっともらしい理由で行けない現実に直面するたびに愕然とし、
突如訳も分からず泣けてきたこともしばしばあった。
突如流れるこの涙の正体は一体なんなんだろう?
自己との対話は時に禅問答のように思えたり…。
この涙の正体は、もしや新しい体験が枯渇していることの合図なのか?
インプットが全てを決めると言っても過言ではない職業。
そう、つまり絶対的な刺激やインプットが足りていなかったんだ、と腑に落ちる瞬間があった。
どこか満足しながら心の奥底にある欲望を抑えようとしていたのかもしれない。
生き方は常にトレードオフであること
自分が挑戦しなければ失うこともなければ得るものもない。
多少の痛みは伴っても、その先の未来で変わる可能性が1%でもあるのなら賭けてみよう、
そう思える人生でありたい。
その年齢、そのタイミングでしか出来ないことがある。
今回のエッセイのテーマである、
足を知ることの弊害は、
「足を知ること」と「現状に満足して何も挑戦しないこと」は
似て非なるものだと自覚したことにある。
自分のアッパーはここまでだ、と思えばその程度にしかならない。
仕事も遊びも振り切らなければ結果はついてこないと常日頃思っていること、
旅の途中、そんなことをたくさん回想したりした。
私は今年30歳になる。
20代最後の一年を仕事も遊びも全力で取り組む最高の一年にする、
そう自分と約束した年の初めから、まもなく半分が過ぎようとしている。
そろそろ本格的に海外のゲートが開きそうなので、
今年は2年ぶりに海外へ行って新たな仕入れをしてこようかと企んでいるところ。
結局は、自分に正直になった方が勝ちなんだ。