それはよく晴れた日。
木漏れ日の差し込む、晴天の午後。
森をランニング中のかつて好きだった人から突然連絡が来た。
「Hi, Kahori Chan 🙂(ヤァ、かほりチャン)」
彼の人となりが如実に出るような素朴ながらもやさしい写真とともに、
かつての懐かしい屈託のない笑みを讃えているのが、画面越しに伝わるかのような陽気なメッセージが届いた。
それから、近況報告を兼ねて約1年半以上ぶりにZoom越しに顔を合わせた。
長らく会っていないのにその溝を感じさせることなく、自然に挨拶を交わせたのはお互いの心に恋愛感情の類が残っていないからなのだろう。
たった30分程度の短い再会だったけど、でもそれが逆に私たちらしいなと思った。
それもそのはず。
ヨーロッパ滞在中の数ヶ月間は毎日ビデオ電話とテキストでのやり取りを欠かさず、私は南フランスから陸路で、彼はデンマークから空路で、スペインのバルセロナで集合して太陽の沈まぬ国を一緒に旅をしたり、デンマークはもちろん、スウェーデンにも足をのばしたりした仲だ。
元々90日間だったヨーロッパでの滞在を120日まで延長し、
「そんなことをすれば向こう5年はヨーロッパに入れないかもしれないよ?」
と脅されても、なおシェンゲン協定を違反し、オーバーステイをしてまでも居残ることを所望したかつての自分。
それほどまでに、この奇跡を一瞬を大事に生きていたと思うと、ハチャメチャ感が否めないが、それでもよくやったと思う。
カナダで自分の存在価値と意義を失い、夢敗れて帰国したのち、日本でも生き場を失い疲れ果てた末の逃避行だった、ヨーロッパ周遊の旅。
日本を出発してからちょうど1週間後にデンマークのコペンハーゲンで出会った私たちは、出会ったその日の夜に間もなく恋に落ちた。
こんな風に書くと、軽い女だと見られても仕方がないのかもしれないが、あれは偶然のいたずらが重なったような不思議な出来事だった。
「運命」という言葉はどこかチープな響きでそう思えば思うほど虚しくなるから、出来る限り使わないでおこうと決めているが、そうなのかもしれないと思わせてくれるような不思議な出会いだった。
自分に合う人などこの世にいないと思っていた26歳の頃の自分に、そんな狭い世界で生きなくても世界は広い。どんなことがあっても楽しむ気持ちさえあれば生きていける、と教えてくれたヨーロッパのムードに、そして彼に今振り返ると感謝しかない。
月日は経ち
あれから、間も無く2年になる。
最後にコペンハーゲンの空港で別れて以来、私たちは一度も会っていない。
「このゲートを潜ったら、振り返らずに真っ直ぐ前だけ向いて歩いていくんだよ」
「うん。」
「次は、3ヶ月後に」
結局、それっきりになって今に至る。
あのまま二度目の国境を越えていたら…今頃はどこで何をしているんだろう?
行かないと決めたのも、全て自分の意思で決めたこと。
コロナのせいなんかじゃない。
その決断に全くもって未練はないし、後悔の類もしていない。
コロナがあろうがなかろうが、行きたかったら飛んでいっている。
コロナが渡航にブレーキをかけ、独立に拍車をかけたことだけが事実で、あとは行けなくて残念だったとかさみしいとかかなしいとかは言わない約束だ。
寂しさを糧にして、自分がコントロールできることだけに集中して日本でのフリーランス1年生を謳歌したこと。
辛いことも悲しいこともあったけど、ヨーロッパでの一人旅を乗り越えた自分なら何だってできるよ、とあの頃の自分が奮い立たせてくれること。
おかげで日本において、かけがえのない存在の人たちと巡り会えたことはこの上なく幸せで、今となってはあの局面でデンマークへ行かない選択をしたことは英断だったと振り返る。
それから彼は、故郷のリトアニアに戻って企業のマーケティング責任者になり、私は日本で大好きな写真を仕事にすることが出来た。
もうお互いに用がなくなってしまったコペンハーゲンで再会することは二度とないだろうと肌感的に分かる。
「Your photos are amazing!」
私の写真を見るたびに、プロになった方がいい、と心から賞賛してくれたこと。
その挑戦を陰ながらずっと応援し続けてくれたこと。
私のポートレート撮影(人物写真)の最初のモデルになってくれたのも彼だった。
あの時間、あの場所で出会えたことが奇跡だったのだ。
「来週から、仕事で西ドイツへ行くんだ」とちょっと誇らしげに、私が行きたいと願う場所へ出張へ行く彼に根っからのビジネスマンの顔が戻っていて、今を活き活きと過ごしていることが伺えた。
次はいつ会える?などとは、お互いに口にしない。
もしもそんな機会があれば、どんな顔で会うんだろうか。
ともかくも、元気でいてくれればそれで十分だし、復縁など願わずとも幸せに日々を送っていてほしい心から思う。
週初めの月曜日の夜、仕事終わりに楽しみにしている夜の読書の時間に、
旅雑誌『Figaro Japon』のバルト三国特集をお供に、彼が生まれ育った故郷リトアニアに思いを馳せた。